06.25
戦後沖縄にパインを植える 台湾経験に学んだ玉井亀次郎
玉井亀次郎(たまい・かめじろう)という名前を見聞きしたことのある人は、きっと沖縄のパイン産業に関心を持っているはずだ。玉井は、沖縄本島で戦後初めてパイン栽培に成功した人物と位置付けられており、この分野のことを調べていくとその名にすぐ行き当たる。戦前は日本統治下の台湾で製糖工場に勤務し、退職後には東部の花蓮を中心に農産加工の分野で手広く事業を行うとともに、花蓮港市会議員を務めるなど政治家としての顔も持っていた。

農学校卒業後、台湾へ
玉井は1892年生まれ。自伝『玉井亀次郎回顧録』(1966年)によると、旧羽地(はねじ)村田井等(たいら)で生まれた後、地元の学校を卒業し、名護で丁稚奉公をして学資を稼いだ。1913年3月、名護にあった沖縄県立農林学校を卒業した玉井は、農林学校の校長だった黒岩恒の仲介で台南の新営にあった塩水港製糖で働くことになった。1913年7月31日、基隆に上陸した玉井はよほど空腹だったらしい。懐具合を気にしつつも、有り金をはたきかねない勢いでもちを買って食い、それから列車で南下していった。最短距離で効率よく新営まで移動する頭はなかったらしく、県立農林の卒業生を訪ねるなどして、基隆到着の3日後に塩水港製糖のある新営にやってきた。

塩水港製糖は戦後、接収され、しばらく製糖を続けていたが、すでに操業を停止している。私は2005年2月に初めて訪れたが、サトウキビの原料を運ぶ鉄道のレールがちょっとした操車場を思わせる程度に張り巡らされていて、その規模感は今も印象に残っている。もっとも、製糖工場の規模というのは、砂糖を作る設備の大きさやサトウキビの運搬ルートを長さだけを見ていたのではつかみきれない。サトウキビを栽培する畑の面積やその広がりを考えることによってようやく本当の規模感を推し量ることができる。その意味では、台湾で今も現役の製糖工場として稼働している台湾糖業公司の虎尾工場(旧大日本製糖虎尾製糖所)に原料を供給している農地を2016年12月に実際に歩いてみて、私は初めて製糖工場の本質的な規模を体感することができた。

かつての塩水港製糖
さて、玉井の新営である。
2022年5月、あらためて製糖工場の周囲を一回りしてみた。2005年の訪問では、地元の方が案内してくださり、工場の敷地に入ることができた。日本統治期に整備された庁舎や防空壕を見学し、従業員宿舎についても玄関口のすぐそこまで近づくことがきた。今回は飛び込みだったので塀の外から中の様子をうかがうといった感じになった。それでも、宿舎の前には説明板が設置されており、1937年11月建築の第2宿舎と1948年9月の第1宿舎のことは概略を知ることができた。二つの宿舎は2010年1月に台南県政府の歴史建築に指定されている。日本統治期に整備された第2宿舎は、塩水港製糖の社長用宿舎として建てられた。玉井が塩水港製糖に勤務していたのは1913年から1926年のことだし、1918年には花蓮へ異動となり、新営から離れている。第2宿舎は日本統治期に建てられたとはいえ、玉井は目にしていないかもしれない。あるいは、ひとりの事業家として、または政治家として新営を再訪する機会があり、目の端に止めるぐらいのことはあったのか。 戦後、塩水港製糖は台湾のほかの製糖会社と同様に国民政府に接収される。第2宿舎は新営製糖工場の工場長用宿舎となり、さらには李登輝と陳水偏が総統時代に利用したこともあるという。現在は予備の宿舎とのことだが、建物全体を覆うように屋根が掛かっており、これは2005年に訪れた時にはなかったものである。木造建築だけに、相応の手入れをしなければ、長く使い続けるのは容易ではないのであろう。外壁は倒れそうになっていて、つっかい棒がずらりと並んで頑張っていた。

歴史建築に指定されている2種類の宿舎のみならず、宿舎を含む敷地全体が自由な出入りはできないようになっている。どこかに入れる場所はないものかと歩いてみたが、柵やフェンスが延々と続くばかりで、結局、延平路という大通りに出てしまった。この通りは製糖工場の敷地の「へり」に当たる道である。仕方なく、敷地に沿うようにして延平路を歩くと、「急水溪」という名のまずまず広い川に出た。この川の土手も、工場の敷地に沿って伸びている。しかも、ずいぶん向こうのほうまで。
頭上では、5月とは思えないまぶしい青空が広がっている。日差しがあぶっていて、遮るものはないが、覚悟を決めて土手を歩いてみることにした。首を左右に振りながら土手を歩くと、川と工場エリアが隣り合っていることが分かる。従業員宿舎のエリアを土手から俯瞰しながら歩いていくと、1948年9月に建てられた第1宿舎が、そこだけぽっかり開いたようによく見えた。塀やフェンスが延々と続く通りからはまったくうかがい知ることはできなかったが、そこには屋根のある屋外テーブルや池など居心地のよさそうな空間が広がっていたのである。

製糖工場は広範囲に影響
今回のミニ旅行は、上水流久彦編『大日本帝国期の建築物が語る近代史』(勉誠出版、2022年2月)に収録された辻原万規彦氏の論考に刺激されてのものでもある。沖縄、台湾、南洋などで製糖工場とその従業員宿舎の散らばり具合を実地の調査と史資料で復元した辻原氏は、本書で製糖業の特徴として「他の工業に比べて、製糖工場の建設によって工場周辺の地域の開発に影響を与えることが多かった」(68ページ)と述べる。工場の建設に加えて、広大な農地、原料や製品の輸送に必要な交通インフラ、農地の灌漑や工場用の冷却水を確保するための水源などがそろわなければ製糖業は成り立たない。そのため、広い範囲に影響が及ぶというのである。
新営の製糖工場のすぐ隣を急水溪が流れていたり、虎尾の工場を訪ねたときにサトウキビ畑の広大さを体感したりしたことは、みんな意味のあることだったのである。私はもともと、何も理解できなかったとしても気になる場所には行ってみたくなる性質(たち)である。玉井のことも文字を追うばかりではなく、その場をあらためて歩いてみなければと思わされたのだ。これは辻原氏の論考に触発された部分が大きい。

街が変わる
製糖工場のスケールに関して、辻原氏は2017年に発表した共著論文「戦前期の沖縄における製糖工場とその建設が地域に与えた影響」(「日本建築学会計画系論文集」第82巻、第737号、2017年7月、1859~1869ページ)でも指摘を行なっている。この論考は、西原、高嶺、嘉手納、豊見城、宜野湾、宮古、大東の7工場についてその工場規模と周辺への影響を整理しており、このうち、嘉手納の場合には、労働者の流入や馬車の増加、畑の宅地化、茅葺き屋根から瓦屋根への変化、県営鉄道の敷設などを挙げて、「本島北部の国頭地方への玄関口として嘉手納は発展し、中頭地方でも大きな集落のひとつとなった」(1866ページ)と指摘している。
辻原論文を起点に、さらに論文を渉猟すると、王新衡「植民地期の近代化産業遺産群の変容と価値保全に関する研究-台湾‧旧台南州における近代製糖業関連遺産を中心に-」(博士論文、2014年3月)という論考にも到達することができた。製糖工場が立地した影響で新営のまちが大きく様変わりしていくプロセスを知ることができた。
なぜパインだったのか
玉井は塩水港製糖を辞めた後、花蓮で農産加工事業を展開していく。嘉南平原に代表される広大な平地に恵まれた西部に比べると、東部はどうしても狭いということになってしまうが、東部で撮影された玉井の写真にはキビ運搬用の鉄道が写り込んでおり、相応の規模で事業を展開していたことをうかがわせる。
これだけの実績を積んだ玉井だが、戦後、台湾から沖縄に引き揚げてくると、それまで取り組んだことのないパイナップル栽培を行っている。これはなぜなのか。
当初、私は二つの原因を考えた。ひとつは、終戦から5年たった1950年に故郷へ戻ってきたことにより、出遅れたということである。玉井の出身地である羽地村は沖縄本島北部に属するが、玉井と同じに本島北部から農学校へ進み、台湾の製糖工場で働いた人物の中には、玉井よりも先に出身地に引き揚げた人がいて、これらの人びとは1950年の時点ですでに地元で産業関係の役職に就いており、その後に地元の農協長になっている。沖縄全体を見た場合には、「戦後沖縄の産業復興に尽力し、『糖業の父』ともいわれた」(琉球新報社編『沖縄コンパクト事典』、395ページ)宮城仁四郎がいて、玉井はのちにパイン産業をめぐって宮城と意見を異にすることになる。玉井が戦後復興という大きな流れに追いつけず、出遅れていたことは否定できない。挽回するためには、まだ産業として未成熟だった作物を選択する必要があったのではないか。

こだわらなかった「台湾」
ふたつ目に年齢が関係しているのではないか。パインを始めた時、玉井は60歳。しかも、37年間にわたって村を留守にしていたとなれば、いかに出身地とはいえ顔を売るためにはそれなりに時間がかかったはず。玉井は羽地村議会議員を2期務めてはいるが、ぎりぎりの得票で滑り込んでおり、有権者からなんとか支持を受けていたという状況にあった。信望が厚くなかったということではなく、有権者の負託を受けて戦後の新しい社会を切り開くには、遅すぎたのではなかったか。
私は以上のように考えたのだが、辻原論文から気付かされたのは、もうひとつ見逃していた点があるあるかもしれないということである。
玉井は、サトウキビ産業を順調に回していけるだけの規模を知っていたからこそ、サトウキビを選択肢から外すことができたという点である。玉井は台湾から引き揚げた当初、石垣島で食品製造会社を創業し、真栄里山地区で農地開発を行なおうとしていた。この試みが不発に終わった後、出身地の羽地村へ帰り、台湾での経験にこだわることなく、サトウキビを選択肢から排除し、また、事業家としてのセンスによってやんばるの限られた耕地で成り立ちうる作物を探ったのではないか。 苦労した農学校を卒業した玉井は、製糖会社から社会人としてのキャリアをスタートさせ、事業家としての足場を固めていった。戦後、この成功体験にこだわることなくパインという新しいジャンルに参画することができたのは、自らの台湾経験が、「日本統治下」という条件や台湾という環境があってのものだということを理解していたからであろう。玉井は、辻原氏が指摘するようなサトウキビ産業の規模感も、塩水港製糖の従業員として経験から学んでいたはずである。だからこそ、終戦によってこうした条件や環境が失われ、郷里に引き揚げた時、台湾経験に拘泥せず、次のステップに進むことができたのではないか。事業家としての玉井の判断とビジネスセンスが、戦後の沖縄本島にパイン産業をもたらしたといえそうだ。


